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テレビに託したもの
テレビの放送が始まった1953(昭和28)年は、人々の生活の中にも意識の中にも戦争の記憶と戦後の混乱の名残があった。人々の生活はまだまだ苦しく、娯楽の中心はラジオと映画だった。'53年2月1日、NHK東京テレビジョン局(コールサイン・JOAK-TV)が放送を開始。開局当時の番組表を見ると、放送時間量は4時間しかないが、ニュース・報道番組、大人向けの娯楽・教養番組、子ども向けの娯楽番組や教育番組が編成されており、「すべての視聴者に楽しんでもらえるメディアにしたい」という狙いがうかがえる。
切り札は街頭テレビとプロレス
当初、テレビ受像機は極めて高価であり、テレビを見ることのできる地域も、東京、大阪、名古屋の大都市圏に限られていた。テレビの受信契約数は'53年2月が866件、'54年2月が1万件という水準であった。したがって、テレビ開始当初は、NHK、民放ともに、テレビそのものを普及させることが最大の目標となった。そこで、番組編成は、NHK・民放とも、娯楽中心、それも既存の演劇やスポーツイベントなどをそのまま中継して伝えるものが並べられたが、その狙いどおり「舞台中継」「劇映画」「寄席」「大相撲」などが人気を博した。さらに、テレビの台数を増やすのではなく、テレビを見る人の数を多くするために展開した作戦が「街頭テレビ」の設置だった。街頭テレビは東京・新橋駅の西口広場や浅草観音の境内などに置かれたが、多くの観客を集める切り札となったのはプロレス中継だった。NHKと日本テレビが中継した『シャープ兄弟対力道山・木村政彦』('54年)戦を見るために新橋駅前に集まった人たちは2万を超えた。
テレビは見るもの、見せるもの
この時期に、NHKも民放もそろって強調したのは「テレビは映像メディア」であることだった。ラジオと決定的に違うのは「見える」ということであるから、「見せる」ということにこだわった。設備、予算、要員の不足などもあり、まずはラジオの人気番組がそのまま中継された。『今週の明星』『のど自慢素人演芸会』『ラジオ寄席』などがそれだが、ラジオでは想像するしかなかった歌手や落語家の豊かな表情が映し出され、視聴者は魅了された。また、「見て楽しむ」というテレビ独特の番組として最初に人気を博したのが『家庭ゲーム ゼスチャアー』('53年)で、出演者の動きそのものが最大の売り物であった。2月の放送開始時は、月1回放送だったが、人気があまりに高かったため、7月からは毎週の放送となり、翌年に『ジェスチャー』と改題され'68年まで続いた。
街頭テレビ 人々は街頭でテレビに見入った。テレビのブラウン管は17インチから21インチであったというから、遠く離れた人にどれだけ見えたかは不明だが、群集はプロレス中継に大興奮であった。
NHKの番組保存の始まりは1980年代
NHKが組織的、計画的に番組の保存を始めたのは1981(昭和56)年度のことである。テレビ放送が始まってから30年近くが経っていた。テレビ草創期はもちろんのこと、1970年代までに放送された番組の多くが保存されていない。
大河ドラマは、『獅子の時代』(1980年放送)からすべての回が保存されているが、初期の『赤穂浪士』(1964年)が「討ち入り」の1回のみ、『竜馬がゆく』(1968年)『天と地と』(1969年)もそれぞれ見せ場となる1回ずつしか保存されていない。『NHK紅白歌合戦』の保存は、第14回(1963年)からでそれ以前は、一切保存されていない。人気の人形劇『ひょっこりひょうたん島』(1964年〜)の保存も1224回のうち、わずか8回分である。
なぜこうした状況が続いたのか。草創期から1980年代初頭までの長い期間、番組収録の主力として使われた2インチ幅のVTRに関係がある。NHKが1958年に購入した2インチVTRの値段は、1本10数万円であった。当時のサラリーマンの年収に匹敵する金額である。当然、放送が終わるとVTRは、内容を消して何度も使用することになった。
こうした経費の問題に加えて当時、放送局にテレビ番組を保存する文化がなかったことも影響している。映画と異なり、放送は文字通り「送りっ放し」であった。とりわけ、VTR収録番組が多かったドラマや音楽・芸能番組が被害を受けた。こうしてNHKを代表する貴重な番組が消えていった。
2インチVTR


