ページの本文へ

  1. トップページ
  2. モノからたどる私の戦争
  3. #2 青酸カリの袋と引き揚げの記憶

#2 青酸カリの袋と引き揚げの記憶

執筆者「モノからたどる私の戦争」編集部
2023年10月26日 (木)

#2 青酸カリの袋と引き揚げの記憶

天内さんの「毛糸の袋」

満州へ渡る前、疎開先の同級生がセーターの残りの毛糸を持ち寄って編まれた袋。集団自決のために渡された青酸カリを入れていた。天内さんは、1年に及ぶ平壌郊外での難民生活と、38度線までの約200㎞の道のりを歩いて引き揚げる間、青酸カリをいれたこの袋を肌身離さず持っていた。
ソ連軍に女性が連れさられたり、朝鮮人から暴力をうける様子を見てきた天内さんは、青酸カリでいつでも自分で死ぬことができるということが心の支えになっていたという。

関東軍家族の北朝鮮からの引き揚げ

日露戦争後、1910年日韓併合、1932年には満州国の建国が行なわれた。満州国の首都新京(現・長春)には、関東軍の司令部が置かれ、その家族も住んでいた。1945年8月9日にソ連軍が侵攻を開始し、関東軍の家族は朝鮮半島へと疎開した。

しかし、戦後アメリカとソ連によって、朝鮮半島が38度線で分断。ソ連軍が管轄する38度線以北では民間人の自由な移動が禁じられた。ソ連軍は引き揚げに無関心であり、平壌を中心に疎開した多くの人が難民生活を余儀なくされた。ノミやシラミ、伝染病などの蔓延する収容施設での生活、ソ連軍などによる暴力・強姦におびえながら、歩いて38度線を越えようとした人も多い。

関東軍獣医部に所属していた父を持つ天内さんは、ソ連軍の侵攻を受けて、8月10日深夜に新京を経ち、宣川の日本人学校へと疎開。8月15日には、集団自決のために青酸カリを渡された。平壌郊外の収容所に移動し、洗濯や朝鮮漬けの手伝い、子守などの仕事をして過ごした。1946年の8月に、収容所にいた希望者で、引き揚げの計画を実行。約200㎞の道のりを歩いて38度線を越えた。

証言者プロフィール

天内みどり(あまない・みどり)さん

1933年
父親の職場・軍馬補充部のある三本木で生まれる
1936年
馬医の父親に付いて、満州理へ引っ越す
1938年
北海道の白糠に引っ越す
1940年
父親が陸軍獣医学校の教師となったことに伴い上京
 
代沢尋常小学校へ転入
1941年
父親が関東軍獣医部の獣医中佐として満州に動員
1944年
母方の親戚を頼り、福井県に縁故疎開
1945年
母・妹と3人で満州へ渡る
 
満州から朝鮮半島へ疎開
 
平壌郊外で難民生活を送る
1946年
歩いて38度線を越え、釜山から佐世保へ引き揚げる
1960年
妹のかをるさんが失踪
 
特定失踪者として調査が行なわれている

「証言」の閲覧に際しては、以下の点について十分ご理解し、ご了承いただいたうえで閲覧してください。

・「証言」は、その方が戦後78年を過ぎた時点での知識と記憶に基づいて語っていることを収録したものです。そのため、記憶違いやあいまいな点が含まれている可能性があります。

・「証言」の中には、現在では適切ではないとされる表現や、生々しい表現が含まれている場合がありますが、修正などはせずにそのままにしてあります。

朝鮮北部の宣川で迎えた終戦

8月15日の朝はとても暑い日だったので、私、妹と近くの川で遊んでたんだけど。これは宣川っていうところで、まだ終戦になってないから、日本人学校で。それこそちょっと1日か2日、汽車が調達できるまで待つっていう話だったの。機関車が故障したから行かれないって。

だからちょっと宣川の日本人学校で待つっていうので、宣川にいたんですよ。その朝早く、暑い日だったけど妹と川で遊んでいたら、石は飛んでくるわ、鍋釜たたいてみんな踊り出すわね。

なんだかお祭り騒ぎで、これは何だと思ってて。もうとにかく石なんかが飛んできたから急いで収容されていた小学校に戻って。

そうしたら誰もいない。部屋に誰もいないからね。ずっと校舎内探したら体育館に全員集まっていて、泣いているの。体育館に全員集まって泣いていて、どうしたって、聞くあれもないぐらいみんな泣いて、体育館で泣いていて。

そしたらある方が「日本が負けたんだよ」って教えてくれて。その時の私の直感は、負けるはずがないと。日本は負けないで、一人でなっても戦争するんだって教えられていたから。

だから私も最後一人になるのは嫌だなと。最後一人になって戦うの嫌だから、先に殺された方が良いな、なんて思ってたぐらいだからね。それが日本が負けたって。負けたってどういうことかなと思っていて。

そして今度みんな体育館から各教室に散って、教室はいろんな関東軍の部署があるから、獣医部は獣医部でかたまっていたのね。お部屋に。

放送で、軍の人もちゃんと付いてきていたから、今から大事な放送をするって。青酸カリを渡す。集団自決。日本は負けたと。合図があるまで飲んではいけませんって。

ちゃんと学校だからマイクもあるからね。だからマイクで合図するから、それまでは飲まないようにって言って。 一人に包みが、薬の包みみたいなのがみんなに渡ったのよ。それが1時ごろかしら。

終戦のを聞いて。それで、みんないい着物を着て、持ってきたお菓子とかを出し合って、さあ食べましょうって言うけど、みんなのど通らない。

私は、負けたってどういうことだろうってしきりに考えていたわね。負けるはずないんだってね。一人になっても相手を殺すから、わら人形どーんと突く練習をしていたのだから。

相手を敵だと思って。それに向かって「行けー、やー」って練習を、学校でやっていたんだから。あんな練習をしていたんだから、負けるはずないんだよな、とは思ってたね。

それで、その時に朝鮮人が皆殺しにすると、私たちを皆殺しにするっていうので、攻めてきてるって。2000人ぐらいがね。宣川の町民が全部ね。それで、その時に「青酸カリ飲め」って放送が入ると思って、みんなで待っていたんだけど、入らないのよ放送がね。

校長先生が「子どもたち出てこい」ってね。「全員子どもたち集まれ」っていう放送が入って。私、子どもの中ではいちばん年長者だから小学校5年生6年生っていうとね。小さい子どもたちいっぱい、ごちゃごちゃいる中で、私も行って。

そしたら校長が「朝鮮人っていうのは絶対子どもたちの前で悪事はしない」とね。「まして人殺しなんかはしないんだ」と。「朝鮮人ってそういう民族だ」って。「だからみんなは殺さないでください、朝鮮独立おめでとうって、助けてくださいって、泣いて叫んでくれ」って校長がね。

どう見ても私がいちばん年長者だから、私が体操やる台の上に上がって、「独立おめでとう独立おめでとう」っていうのを言って。みんなで「殺さないでください」って。小さい子たち泣いたりしてたけどね。私は「独立おめでとう、独立おめでとう」って。

しばらくしたら、ガラス窓に石ぶつけたりして、ガラス窓はずいぶん、ほとんど壊れたけれども、2000人ぐらいの竹槍持ったり、鍋釜持った朝鮮人帰っていったわけ。殺さないで。私たちを誰も殺さないで。

それで「ああ、子どもの前で悪事をしない民族って校長言ったけど本当だな」ってね。私、子ども心にそういうことに感動するの。やっぱり。「ああ、朝鮮の人ってそうなんだ」ってね。「子どもの前で悪事しないって校長先生が言ったけど、やっぱりそうなんだ。すごいな」と思って。その感じも忘れないですよね。

そして、その青酸カリを飲まないで、その時も「青酸カリ飲めって言われるまで飲むな」って命令だったから。だから飲めっていう命令も出ないまま、みんなで落ち着いたわけですよね。2000人ぐらい帰っていったから。

私が部屋に入らないで一人、「助かったな」って。「朝鮮人ってすごいな、子どもの前で悪事しないってすごいな」と思いながら校庭の方向に歩いていって。

その校庭にきれいに芙蓉の花が咲いていて、もう本当に気高くて。芙蓉の花ってすごいなあっていうふうな感じで感動していたら、おみこしのような、朝鮮語で歌を歌って、男たちが、少年たちが棒を担いで、おみこしみたいにして来るのが見えたのよね。校庭の裏の方に。

ちらっと見たら、その棒に裸の女の人がつるされて、長い髪が地面引きずって、体も血だらけでね。その時も、本当に両足開いて棒二つに結わえて、棒が刺さってて。

ああ、殺される、だけどまだ生きている、うめいているって。私よりは年取ってるな、この人はお姉ちゃんだなって。17か18かなって、そのお姉ちゃんのことを考えて。そのお神輿みたいに担いでるのも17、8かの少年で。

さっき私たちを殺さないで、朝鮮人の人みんな帰っていったのに、なんでこの少年たちはこんなことするのかなって。早く死ねばいいけど、まだうめいてる。血だらけでうめいてると思って。

何かそういう辱めを受けるような時、私これ(青酸カリ)を飲むと思ってた。集団自決でなくても。その女性を見てから、いつどういうふうな殺され方するか分からないと。そしたら私はこれを飲むと思ったね。

だけども、母と妹をなにしろ連れて帰らなきゃいけないっていうのが使命感としてあったから、だからそんなに死ぬことも考えてなかったけども。大事だと思ってはいたね。これさえあれば怖くないって。

その夜は今度、神社仏閣、日本人の家っていうの焼き払うわけ。暴動だね、暴動。ばーと火の手が上がって、なんとか神社だって。わーって上がって、なんとかの社長の家だとかっていうのが、ささやかれていたんだけども。

終戦直後 無政府状態の朝鮮にて

今度その次16日。「女子ども出てこい」って。もう女子どもしかいないんだけれども。「出てこい」ってむち持った男が、むち振り回して学校に入ってきたの。

「母は病気ですから」って言っても「出てこい」って言ってむち振り回して、みんな子どもおぶってるおばさんもいたし、それを連れて、本当に乾いて、校庭なんて感じでないんだけど、カラッカラのところにタンポポがいっぱい咲いてる所へ連れて行って、タンポポ掘れっていうの。掘る道具ないわけ。

暑い日で、あの年の夏は暑かったんだけども、手で根っこを掘るって言ったって、タンポポの根っこを掘るのも、もう大変だったんだけども。

それをむち持った男が「やれ」って言って、むち振り回してたのね。手の爪のところから血は出てくるし、うちの母は病気だったから、もう心配だったし。

その日が、それが16日の話。これは結構きつかったです。暑い日のタンポポの根っこ堀り。

今度17日。またむちの男が来て「出てこい」ってなったわけ。今度、レンガ工場まで遠いんだけど歩いて、レンガ工場まで連れて行かされて、持てるだけレンガを持たされてね。

妹は7歳で、母は病気で。私が最高持つんだけども。でも妹も母にも持たせられて。相当の百人もいたでしょうかしら、日本人にレンガを持たせて、ついてこいって言って、ずーっと遠い所まで歩かせるんだけども。

私、妹も母も歩くの遅いから、もう一番後ろになって、とぼとぼとぼとぼって長い列歩いて行って。重くてね。途中で母が「はあはあはあ」ってなったもんだから、休ませて。木の涼しい所に母をおいて。

そのレンガをまた私が持ったら、私もふらふら、妹もふらふらなんだけども。レンガ運びっていう重労働だけれども。それをして、みんなが休んでるところまで行ったら、コーリャンのおにぎりがみんなに渡ってて、そのおにぎりを食べてひと休みみんなしたようなとき、私が着いたわけね。

私が着いた時はもうコーリャンのおにぎりもないし、休む暇もないし、「さあ立て、みんな午後の仕事教える」って言ったら「今来たレンガを持って、あのレンガ工場まで持って行って、元通り積め」って言うわけね。

男むち振り回してるんだ。それでみんな、関東軍の奥さんたちだから、ほんとに奥様たちなのよ。その人みんなまたレンガ持って、ふらふらふらふらって歩いて。

私も母のところ行って、死んでるかなと思ったら、母休んでてくれて。母が無事だったと思ってほっとして。またレンガ運びながら、レンガ工場まで行って、みんなでブツブツブツブツ言いながら、積んでった。運んだ自分のレンガをね。

むちの男はむち振り回してるわけだけど。そしたら最後にむちの男が、「お前たち日本人が俺たちに何をしたか、今俺はそれをお前たちに教えてやったのだ」って言ったの。「ああ日本人はこういうことをして朝鮮人に重労働させていたのか」ってね。

6年生って言うと、子どもと大人の間で、結構きちんとものは考えるの。「ああ、日本は朝鮮人を、炭鉱で石炭掘ったとか線路引いたとかって聞いてたけども、こういう重労働させたんだ」っていうふうに私は思ったよね。じゃ仕方ないって。

ソ連が朝鮮北部へ進駐

1週間ぐらい平壌で貨車を待つ、日本に帰る貨車を待つ。今に貨車が来たらそれに乗せるとかってごちゃごちゃ言いながら、平壌の駅にたむろさせてたの、私たちを。

だから平壌へ来たら私たちごちゃごちゃというのが駅にいっぱいいるわけね。駅の近所に。だーっとまだ止まらないような汽車から、ソ連兵が降りてきて、いよいよもう女と見ればみんな抱きつくの。あっちこっち。

そして今度時計とかも指輪でも何でも、そういうの全部取って、そして抱きついて。それを私は12歳で見てたわけね。

これはおおかみだって。男はおおかみだってよく聞いたけど、確かにおおかみだわと思いながら、見ていたんだけどね。

そしたら母が、みどりっていうから、「みどり逃げて」って叫んでるので、見たらなんだか大男が私を追っかけてくるから、だから逃げたんだけど、どこに逃げたって捕まるじゃない。私が汽車の下に、線路のところにパッと入って、こうやって寝そべっていた時に。

私12歳だからこうやって伏せていても、死ななかったわけよ。列車がずっと走っていってから、意識が戻ってむくむくっと起き上がって。

もう母たちに抱きかかえられてね。その時に死にぞこないって、私言うんだけども、もう死にぞこない。死に際に接していたような状態だったけど助かったわけ。

船橋里の難民収容所での生活

床なんていうのが、ただベニヤひいたようなのでね。そして、豚小屋みたいなところに、さっきの写真、窓が一つ、光が少し入る程度で。立てば屋根がくっつくくらいの、そんな天井の低さで。

それが、50人くらい入るのが10くらい部屋があって、それが3棟あって。 2000人ぐらいが収容されるっていうんだけど。

そこに私たちが入った時に「ここは日本人が朝鮮人を押し込めて、そして若者を働かせたんだ」とね。

隣の方に立派な工場があって、製鉄工場だって言ってたけれども。すごい立派な工場があって、その脇に今言ったぺっちゃんこの豚小屋みたいなのがあって、そこへ全部朝鮮の若者を収容して日本が働かせていたって。

そういうのを聞いて、私はまたそこで日本人の悪さ知ったわけよ。「え、日本人がこんな土の上にベニヤをひいたようなところに、朝鮮の若者押し込めて、そして働かせていたのか」とね。もうびっくりしちゃって。

それから、私は絶対そこで、下から水気は出てくるし、ノミもシラミもいるし、とにかく劣悪な状態だけど、一年間そこにいたけど、不服は思わなかった。

日本人がこんなところに朝鮮人を住まわせたんだっていうのを、もう心の芯に思っていてね。日本って一体なんなのだと思った。

そこに一年間いたんだけれども、鉄条網で、全部鍵閉められて。しばらくしてから、金日成帰ってきているから、割に良くなったわけ。いろんなものがね。

私たちのところにも関東軍からついて来た兵隊さん何人かいたから、その人たち責任ある仕事してくれてて。金日成に朝晩おかゆみたいな、コーリャンのおかゆみたいなものを食べさせてくれるように交渉して。

朝晩はね、コーリャンのおかゆが出たの。その頃になると、お金をみんなから集めて、うちの母はなんたって病院から、入院してた病院から来たから、そんなにお金持ってなかったはずだけど、とにかくみんながお金を出して、そして金日成に渡したりしてね。

コーリャンの朝晩のおかゆの中に、ころんとじゃがいもが入ることがあってね。そのじゃがいもが、みんなに行くだけの数はないのよ。ひとかけらが10くらい入るだけだから。

獣医部ってお馬さんのお医者さんの仲間だけが一部屋にいるんだけど、獣医部の中の責任者の3人ぐらいの兵隊さんが、自分の家族にそのじゃがいもをすくう、だろう。すくったんでしょうけど。

それを同じ獣医部の仲間なんだけども、獣医部の仲間では、うちの父が一番偉いの。部隊長みたいなね。だからうちの母もその奥さんになるわけ。病気で寝てるんだから、みんながとても優しく親切にしてくれてたのよ。

だけどじゃがいもなんて言うのになると、みんながもう誰のにそのじゃがいもがいくかっていうのをこうやって見てね。「あんたのにいった。昨日もいったのにまたいった」って言ってけんかが始まるの。

今度、子どもがまだその頃亡くなっていなくて、結構小さな子どもがいたから「あんたは小さいのだからそんなの食べなくていい。お母さんによこしなさい」ってなるわけね。一切れのじゃがいもよ。

それも私、子ども心に親子とかこんなひどいのかと。親が食べなくても子どもに食べさせるっていうのは当たり前じゃないかって。こういうふうにせっぱ詰まれば親子でもこんなものかっていうのを、痛感したのよ。

これが朝鮮の人にいじめられたよりも、そのころはいちばん悲しかった。親子げんか。そしてみんな子どもが死んでいくの。お乳は出ないしね。もうどんどん食べ物ないし、死んでいくんだけど。

お母さんたちが「早くあんたも死んじゃえばいい」ってね。「あなたがいるからこんなに苦労する」っていうことを言い出すのよ。みんな死んでいくんだもの。今日何人死んだとかってね。

難民時代の仕事 綿摘み

9月ごろだったかな。綿摘みって、みんな「綿摘み楽しい」って言うんだもの。「風と共に去りぬ」と同じで綿摘んで。そんなのは私できると思って、みんなの大人の中に私、縮こまって、朝6時ごろ鉄条網開くんだけど、そこにちょこっと紛れ込んでね。

そして綿摘みに行ったら、これが楽しいのよ。だって綿摘むのが、子どもだからって全然だもの。普通にできるわけ。賃金もらって、焼き芋買って、そして妹に食べさせるって。これがたまらなかった。楽しくてね。

難民時代の仕事 朝鮮漬け

白菜を畑から採ってきて、川へ持っていって洗って、そして干す。何日か干すのね。干して、それを今度漬物つけるんだけれども。

それも結構、頑張ればやれるものでね。私子どもなんだけど、大人の人に交じって。川からたるに白菜乗せたの持ってきたり、そんなこともやったです。漬物つけるのね。

朝鮮漬けっていうのは、またキムチと違ってね。中に具を挟むんだけれども、あんな真っ赤じゃなくて、りんごを刻んで、柿の皮刻んで、梨刻んで、そしてにんにく、唐辛子突いて細かくして。具を塩辛、アミの塩辛って、アミの小さなの塩辛たっぷり。

それを混ぜて、葉っぱ一枚めくってポン。また葉っぱめくってポン。あんな真っ赤にならないの。りんごの皮とか柿とか梨は必ず入って、にんにくとアミの塩辛と。

楽しいのよ。私も本当に自分でも、けなげで涙が出るけれども。その白菜めくってポン、ポンとやってると上手にやりたくなるの。自分なりに。研究しながら。だんだん上手になると、おばさんたちがほめてくれるわけよ。「あなたは上手だね」って。

ぽんぽんって。この仕事を、一軒一軒まわるの。ずっと農家を。今日はあそこ、今日はあそこ。

難民時代の仕事 豆腐売り

今度お豆腐売り。とにかく朝鮮の人はお豆腐を食べる。朝晩食べる。

「お豆腐売りを朝4時ごろ、起きて行けばいい」っていう仕事を持ってきた人がいて。それも「壊れたお豆腐は、賃金から引くけども、安くしてあげるよ」って。それ気に入ったわけ。

お豆腐を母に食べさせたいと。壊れたのでも、母と妹にお豆腐食べさせれば栄養があるからと思って、飛びついてお豆腐売りして。

朝4時に鉄条網のとこ出て行って、さおにおけを二つぶら下げて、朝鮮語で「お豆腐いりませんか、豆腐いりませんか」って言うんだけれどもね。

そしたらこれまた少年だ。少年が3,4人出てきて、おけを蹴っ飛ばして。12月の寒いとき、雪がもう凍ってるところにだーっと豆腐蹴飛ばして、私にボンボンとぶつけだしたの。

その豆腐ぶつけた少年たちはただ逃げて行ったわけだから、私そこにぼう然と立ちながら。

これで豆腐売りもできなくなった。賃金、今まで働いて賃金はゼロになっちゃう。豆腐、今日の豆腐のお代になって。もう今までの賃金もらえないと思って。もう泣きそうだったけども。

難民時代の仕事 編み物

鉄条網の外に、ずっとチヂミ売り、焼き芋売り。もう並ぶのよ。それ買っておばさんたち食べてるけども、私、お金がない。妹が食べたそうにして、こうやって見てる。

そしたら、あるおばさんが妹呼んで、焼き芋くれたわけ。私が「ありがとう」って。「私編み物が上手だ」と。「だからこの赤ちゃんの靴下や帽子編んであげたいから、毛糸とかぎ針を持ってきてほしい」って。そしたらすぐ持ってきてくれて。

私本当に疎開してる時も、その前からも、編み物が上手上手って言われたのよ。その時12歳だけれども、結局すぐおばさんに編み物で靴下編んであげて、帽子とか。そしたら喜んでくれて。また妹に焼き芋くれたりしてね。

「あの子に頼むと可愛いの編んでくれるよ」って、口づてに言ってくれて、たくさん来たの。編み物の仕事が。それで編み物をしてあげてるうちに、焼き芋をもらったりしてね。

収容所の女性を連行するソ連兵

今度いよいよ雪が降って来る頃、もう寒くなると夜。ソ連兵だ。このころよ。ソ連兵が、雪が降って、寒くなって日が長くなってっていうあたりにね。

がちゃがちゃがちゃがちゃってジープで押し寄せてきて、鉄条網だからどうやって入ってくるんだろうと思ったの。子ども心にね。どうやってこの人たちが入ってくるのかと。

それで兵隊がだーっと、シラミやノミだらけの所へ入ってきて。女の人連れて、ジープに突っ込んで行く。きゃーって女の人の泣き声が聞こえるっていうのが毎晩続いて。

うちの母はいくら病気だって言ったって寝てるんだから、女には違いないわけだけど。お母さんは大丈夫か大丈夫かと思ってたのね。母は、私は子どもっていったって、12歳だから。今のいろんなの見てると、子どもと大人の間でね。それで本当に母は心配だったと思う、私を。

無事、私も母もソ連のさらわれるのからは逃れたわけだけども、毎日女さらいに来るわけよ。そして「マダムダワイ、マダムダワイ」「女だせ」っていうのね。

女出せ女出せって言うと、もう本当に若い女の人で率先して行く人もいる。命、みんなを救うためにね。そんなことを自分で、ああすごい人もいるってね。

「マダムダワイ」っていうのが怖くて。もう本当に。ただ雪が降っているような時だと、その女の人の泣き声がずっと聞こえたり。「マダムダワイ」って言って部屋中歩くソ連兵の靴の音が聞こえたりして。

私が結婚してから、寝てても、もうだめなの。その「マダムダワイ」っていう声と、女の人のキャーっていう声が染みついててね。もう30超えてるんだけれども、ぎゃーって夜中泣くんだって。

それで娘も生まれたころだから、「お母さんまた、きのう泣いてたよ」っていうの。私はどれほど強烈だったかあの体験がと。

さらわれていく女の人の泣き声が強烈だったの。もう遠くさらわれていく女の人ぎゃーって声が聞こえるのが。自分の夢で、あの声が聞こえてるっていうのは、30過ぎてもずっとそんな状態だったからね。

それで、悲惨でしたね。この雪が降ってるころのソ連兵の「マダムダワイ」はね。

死体処理の手伝い

食べるものがないから、子ども達はたくさん死ぬ。それからチフス、疫痢、チフス、ジフテリア、伝染病で知らないのがないぐらい。みんな見てる前で死んでいくわけ。

ジフテリアで死ぬなんてもう苦しくて大変なんだけども。いや本当に、法定伝染病の、もう全部知ってるって生き証人ですよね。

死んだ人たちを運ぶのにも何もないから、そこらにあるものに包んで、船橋里のそばの山に置いてくる。お墓もないしね。埋められないし。冬だから。置いてくる。

どんどん積み重なるじゃない。これも忘れられない。もう死体が積み重なってカチカチに凍っていく。「なんとかちゃん」って。「必ずまた会いに来るよ、なんとかちゃん」って言って置いて。私も手伝ってたから。

幸いというか、12歳だとね、子どものような大人のような間だから、死体処理なんかも手伝うのよ。「子どもだからお前はいい」なんて状態でなくて、一緒に引きずってって、山行って置いてきてね。なんとかちゃんさよならって言ってきてたから。

それも悲惨だったの。もう本当に、この山。うちの母たちをこんなところに置いて行かれないってね。絶対母を殺しちゃなんないっていう覚悟にもなってた。母や妹だって栄養失調だから、こんなになってるんだけども。

とにかく、こんな山のお墓がないところに、母を置いては来れないよって。私もそうしたら死んじゃうよって思いで、私も働くのに精が出たというか、頑張ったね。

難民時代の仕事 チマチョゴリの洗濯

洗濯女というのがあって、洗濯をしに歩く。朝鮮っておもしろいよ。各家庭で洗濯の日が決まってて、そこへ洗濯女として行くの。私もできると思ったから。

洗濯女で、ある一軒の家行って、山ほどあるチョゴリ、きれいなのよ。ピンクとか黄色とか。そのチョゴリを着てひと冬ためるから、春洗うの。

灰煮て、大きな窯に灰を煮て、その中にチョゴリ入れて、棒でかきまぜて。あと川へ行ってトントコトントコ叩くの。平べったい木でボンボコボンボコね。川の水かけながら。そうすると絹だから柔らかくなって、着た時ふわふわふわっとなるでしょ。きれいでね。軽いし。

その洗濯女やって。稲刈りした後の畑に綱渡して、その洗濯したチョゴリを干すときれいでね。私が羽衣みたいだとか、天人の羽衣だって喜んでいて、かわいがられたの。その洗濯女にもね。

何日かやった。今日はここ、明日はあの家、あの家ってね。洗濯女も楽しかったの。おばさんたちにかわいがられたし、もちろん賃金もらうのよ。賃金もらうから、また焼き芋買って帰れるしね。

難民時代の仕事 コーリャン畑の草取り

今度春が来たらコーリャン畑の草取りって。コーリャン畑ってずーっと長いうねで。一本のうねを一日かかって草を取るっていう仕事なの。それにみんな出て行ったわけよ。鉄条網開けてね。

また出て、許可があってよ。許可があって。それで私も紛れて、また一番小さいんだけど、こしょこしょって出て行って。

割り当てられて、コーリャン畑。一畝ずつ割り当てられたら、おばさんたちで農家の出身だから「こったら仕事だば楽で楽でしょうがない」って。だーっと草とって、あっという間に。

私は一人残って、真っ暗になって、むちで叩かれながら、まだまだ先があるの。コーリャン畑の。おばさんたちはみんな、こんな楽な仕事って言ってはやばやと帰って行くでしょ。

その草取り、むちで叩かれて、お給料を投げつけられて、「お前はクビ。明日から来なくていい」ってね。本当にこのときは、明日から来なくていいってのは私にとって恐怖なわけ。妹に焼き芋も買って帰れないのだから。

難民時代の仕事 子守

焼き芋屋さんで、賃金もらったから焼き芋一つか二つ買って。その時に焼き芋のおばさんが、いつも私を見てたでしょうからね。

「あなたは草取りは無理だ」と。「私が知ってる人で、子守を探してる」ってね。「子守できるか」って言うから、「子守ならいいです」って言って。

「明日連れてってあげるから、朝ここおいで」って。私朝そこへ行ったの。そしたら子守探してる家、大きな農家でね。お屋敷で。そこへ行って、双子の生まれたての双子の子どもと、1歳と3歳と5歳とって、とにかく5人いるわけよ、子どもがね。

それを預けられて。私は、はじめは日本語で子守歌歌ってたんだけど、だんだん朝鮮の歌も覚えていって、朝鮮語も上手になって。子どもたちのおかげで。

子どもたちにおやつ出すでしょ。必ずもらったし。すごくそこのおばさんにかわいがられて。本当に恩人なの。そこのおばさんがね。

1946年夏 引き揚げを決める

みんなもう二年目の、西暦の45年終戦ね。46年目は、もう生きていられないと。だから歩いて帰ろうと。
「よし、じゃあ歩いて帰ろう」っていうので歩いてる人が出てきたわけ。私たちの船橋里の集団も、歩いて帰ろうっていう話になって。希望者だけっていうことが、毎日会議でね。希望者集まれとかなったのよ。

だけどうちの母が病気で、妹が7歳で。歩いて、一日8時間を1週間歩いてって、そんなのできるはずないなと思って。

子守のおばさんに相談したの。したら、子守のおばさんが「私を養女にする」と。お母さんと妹も引き受けたと。大きな農家だったからね。「行ったってそんなもの歩けないよ、うちおいで」って言うので。

私はどうしようかなと思ってた時に、うちの父の部下だった少年兵、北原さんっていう少年兵が、その集団の中に紛れ込んでいたわけね。それで紛れ込んでいたけども。

うちの父が部隊長で、その馬の世話してるような少年だったわけ。17歳でね。この北原さんっていうのが私をかわいがっていたし、私は12歳だから彼17歳とかで、まあ恋心もあるしね。

そして私が北原さんにどうしようかって言ったら「養女になんか行くな」ってね。「今の時代に、とってもそんな北朝鮮に養女になんか行っちゃだめだよ」って。「僕が、お母さんと妹責任もって連れて帰る。あんたは一人で歩けばいいし。妹とお母さん私が責任持つから帰ろう」って。「歩いて帰ろう」って言って。そしておばさんに養女の件は断ったわけね。

そしたらおばさんが、大豆を、たくさん窯に入れて、ガラガラガラ。今でも音がする。ガラガラガラガラ大豆いってくれて、それを細いひもにいっぱい詰めて私の体にぐるぐるぐるぐる大豆巻いて、それからにんにくも、いくつも焼いて。そのにんにくも細いひもに詰めて、痩せてたから、体に巻きつけて。

「これは 10日ぐらいはこれで生きていける」と。「大豆はお母さんと妹に食べさせるときは、よく噛んで、あんたが噛んで柔らかくしてから食べさせなさい」って。「朝昼晩と10粒くらいずつ食べて、にんにくひとかけらずつ食べれば生きていけるよ」とおばさんに言われて。

体ににんにくと大豆とぐるぐる巻きして、帰ってくるときに5人の子ども、2人はまだ赤ん坊で、双子だけども、上の子どもたちが「お姉ちゃんお姉ちゃん」って泣いてね、送ってくれて。

そして、大きいお屋敷だったけど、そこのおじいさんが「これ持ってきなさい」って、当時貴重だったと思うけど、磁石をくれて。「南指すから南へ南へ歩いて行けば帰れる。絶対北の方行っちゃだめだよ」って。磁石くれて。

引き揚げの体験

北原さんが逃げるために鉄条網の下に穴掘ってくれて。真夜中に逃げなきゃならないからね。その北原さんが掘った穴を、母と妹と私とでくぐって。

そしてまず川を渡ったり、橋の下で寝たりしながら山奥まで、北朝鮮の山奥まで逃げて。それでも、だだだだって鉄砲の音聞こえてた。見つかれば殺されるんだけどね。

その時に山中で、マダムダワイだ。ソ連兵が隠れてて「マダムダワイ」って、私たちその時10人ぐらいのグループだったけども。たったっと顔を上げて、女の若いのを探して、お前とお前と残れって言われてね。

その2人の女の人を残して私たち帰ってきたでしょ。その時残した2人の人がもう泣いて泣いて。本当泣きに泣いてるの。私はいつもこうやって見て「お姉ちゃんごめんね、ごめんね」って言いながら帰ってきたわけ。この事がまた忘れられないの。

私が夜中泣いて目が覚めるっていうのも、その収容所にさらいに来た女性というよりも、この山の中の女性の泣き声なの。山の中、せっかく逃げて逃げて、もうじき南朝鮮だっていうところに来てるんだから。それを隠れていたソ連兵に捕まって、そして私たちだけ帰ってきたでしょ。

そんなふうにして、だんだんと南朝鮮に近づいてきた時には、北朝鮮の人たちも、日本人がたくさん来るっていうの分かってるから。そして途中で死んで、ゴロゴロ死んでるのよ。もう疲れちゃって。

その死んでる人の服を剥ぎに朝鮮人が来てるの。それも私がなぜ朝鮮がこんな貧しいかってね。朝鮮は日本の領地だから、地図では赤くなってたはずだとね。赤くなってあって日本だったじゃないかって。

それなのにこうして死んだ人の着ていたものまで剥ぎ取っていくのかと思ってね。何を日本はしてたのかなと思ったよ。

最後の日に、暑くて暑くてもう大変だったんだけども。母がお水飲みたいっていうからね。お水をもらいに、芙蓉の花が咲いてるところ、きれいなお庭だったから、ここに住んでる人はきっといい人だろうと思って、そこに行ってね。

「死にそうな母がお水飲みたいって言うんだけど、お水ほしいんです」って言ったら、「いくら持ってるか」って言うから「お金はないです」って言ったらね。戻っていって、バケツにいっぱいお水入れて、そしてドーンと私にお水かけて「金のない日本人に水なんかやれるか」ってかけたわけ。

私ずぶぬれになって「お母さんごめんね、ごめんね」って言って。髪絞って、母に水を含ませてあげたりしてて。この時母死ぬなって。この日、もうあと一日生きてれば南朝鮮だけども、弱ってたから母はもう駄目だなと思ってたのね。

みんな日本人の人、お金持ってて、頼んで泊めてもらってる人もいてね。北朝鮮の農家の家なんかに結構泊まって、泊めてもらっているの。だけど私お金ないから野宿なわけ。毎日野宿だけども。

その日も、母寝せて紐で私と手を縛って、妹の手も私縛ってるよ。時々グッとやると、母もグッとやるから生きてたんだと思って。

38度線を越えて

ディレクター)青酸カリを持ち歩いていたときの、この袋の存在は12歳の少女にとってはどんなものだった?

天内)宝物だよね。これさえあれば死ねる。刺されて死んだり裸にされてつるされたりしたら、もう嫌だから。そういうときにはこれ飲めば死ねるって。宝物よ。これがあれば自分で死ねる。

そうよ、相手にロスケって、ロシア人ね。ロスケに殺されるのもしゃくだし、朝鮮人に殺されるのもしゃくだし。これは自分で死ねるって、それはもう宝物だ。自分で死ねる。殺されなくてもいい。ほんとに安心してた。

だってなぶり殺されるんだもの。実際に女の人がさらわれて行ったから。ああ、女の人がさらわれて、最後殺されるんだなって。青酸カリを大事に大事に持ってて、いつでも私は死ねる。そう思ってたよ。

38度線って、北朝鮮と南朝鮮の境。その38度線越えて、もうアメリカの占領地だから北朝鮮さようなら、ここは南朝鮮。今の韓国だけど。もう殺されることはない。アメリカの統治だから。それでこれをまいたんだもんね。

そのときの自分の心境っていうのを、自分自身でも一番すごいなと思う。ああ、これで生きて帰ったって。もうこれはいらない。さようならって青酸カリまいたわよ。もう殺されることないって、アメリカが守ってくれるっていう感じ。

これも同じ。もうお母さんも生きて帰ったし、妹も生きてたし、もう死ぬことはないのだと思って、土掘って(形見にとっておいた)髪の毛埋めて、ありがとうって。

お母さんありがとう、妹ありがとうって髪の毛埋めて、その38度線超えたときが1番人生で劇的ね。お母さんありがとう、生きててくれてありがとうって。

それで、これを見ることによって、母や妹に対する愛情がふつふつと沸き上がってくるわけ。

収録年月日:2023年10月8日

NHK青森では、青森県のみなさんが経験された戦争がどんなものだったのかを記録し、次の世代に伝えていきたいと思っています。 ご自身やご家族の戦争体験を表す象徴的なモノと、そのエピソードについて、みなさんからの証言を募集しています。 モノがない場合も、戦争の経験についてお話いただける方は、エピソードをお寄せください。

「モノからたどる私の戦争」記事一覧を見る

おすすめの記事