DATE: 2009年11月07日 (土)

『エリン こぼれ話――原作者のアニメ監修日誌――』(7)

 
第7回 アニメの力


43話、いかがでしたか。
心が通じあっていると思っていたリランに、手を噛みちぎられるエリン。
獣と人との間には、決定的な違いがある。それは、人にとっての「善悪の基準」などとはまったく関係のないもので、あのときのリランにとっては、エリンの手は、目の前に出てきた邪魔なものに過ぎなかったのでした。

『獣の奏者』をアニメ化したいというお話をいただいたとき、私は正直なところ、かなり、ためらいました。
母が闘蛇の裁きにあう場面も、エリンが手を喰いちぎられる場面も、物語の、濃密な文章の流れのなかで一気に読みすすめるのと、週一回のアニメで、動きや色があり、声が聞こえる生々しいシーンとして観るのとでは、まったく印象がちがうのではないか、と考えていたからです。
しかし、監督たちとお話をするうちに、私の不安は消えていき、これら二つのシーンを実際にアニメで観て、私はつくづく、このスタッフで、『獣の奏者』をアニメにしてもらって良かった、と感じました。

文章の力とは異なる、アニメの力。
打ち上げパーティのとき、石田彰さん@ダミヤが、いくつかの例を挙げて、そのことを話してくださいました。
石田さんは私が書いた『獣の奏者』を全巻、深く読み込んでくださっていて、その上で、43話の『獣ノ医術師』の回で、エリンがはじめて、母ソヨンの形見である腕輪を胸から外して腕にはめ、代わりに音無し笛を胸に下げた、あのシーンを観たとき、これこそアニメの力だと感じて、感動した、という意味のことをおっしゃったのです。
(これは、私が石田さんの言葉を聞いて、そういう意味であると理解したということで、石田さんがおっしゃりたかったことを正確に伝えているかどうかは、わかりません。念のため)
石田さんは本当に凄い方で、私は彼がおっしゃることを聞くたびに、その思考の深さに胸を打たれます。
そして、私もまさに、あのシーンに、アニメならではの力――言葉ではなく、映像で見せる力――を感じたのでした。

ソヨンが形見の腕輪をエリンにあげる、というエピソードは、原作にはありません。浜名監督が考えだした、アニメオリジナルのエピソードです。
もうひとつ、母代わりとなった厳しくも優しい、私の大好きなエサルが、指を失ったエリンにミトンを渡す、というエピソードも、アニメオリジナルです。

浜名監督はじめ、アニメのスタッフたちは、ソヨンの腕輪やエサルのミトンという「象徴」を、実に効果的につかって、一瞬のシーンに、これまで生きてきたエリンの人生の様々な思いと、リランという獣との関係性の変化を、見事に表現してしまったのでした。

「私は獣ノ医術師……。
 獣を育て、迷いながら、苦しみながら、獣と共に生きる。お母さんのように」

という、アニメオリジナルのセリフは、私がこの物語にこめたものを、真直ぐに貫いてくれた、素晴らしいセリフです。

私は、「完全無欠の正義の人」など描いていません。
正しくあろうと願っても叶わない、理不尽な、そして、個人の力では抗いようもない圧倒的な状況の中を、迷いながら、苦しみながら、歩いていく人の姿を、描いたのです。

アニメ『獣の奏者エリン』は、その最も大切な「根」を、見事に表現してくれたのでした。

44話は、石田彰さん@ダミヤにつかまってしまったエリンの葛藤を描いています。エリンの真直ぐな眼差しと、石田さんの声の演技の素晴らしさは鳥肌ものです。
様々な思惑を胸に秘めながら、表にしっかり怪しさをだしながら、その裏側に知性を感じさせるという、極めて難しい「声の演技」を、石田さんがどう演じておられるか、ぜひ、堪能してください。

上橋菜穂子

投稿時間:18:50 | カテゴリ:獣の奏者エリン | 固定リンク  | トラックバック(0)

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